人為と天意

人為と天意

人為と天意

さて、老子は完成品というものを認めません。ここから話を始めましょう。自然の状態というものは、人為が加わり完成する。とすれば、これは完成ではない。われわれにとって、天意というものは常に不完全である。

たとえば雨一つとって考えてみても分かる。雨が稲の上にだけ降ってくれれば一番都合が良い。ところがそうはいかない。雑草の上にも降る。したがって、雑草を抜く、というのは人為になるわけです。天意という雨は、人間のためだけではない。太陽はなるほど、植物を育てるが、強すぎると砂漠になってしまう。

完成というものは、人為がそこに加わって、究極的に一番素晴らしいものを求めることです。しかし、老子はこういうものを認めていない。最初から人為というものを過少評価しています。したがって完成した人間も認めない。

老子が言うには、一つに決められた真実というものはなく、そもそも自然には形がない。この形がない、というのは、決まった形がないということです。たとえば、ここに一本のペンがあります。これは決まって、ここにあるが、いずれは壊れてしまう。自然に存在しているものは、どんどん形が変形しつつあります。

易経などを見ると分かりますが、もともと中国には完全を良しとしない、という考え方があります。たとえば、書経に「満は損を招き、険は益を受く」という言葉があります。また、易経には良く言われる「亢竜悔いあり」という言葉があります。これは、パーッと天に昇っていく竜は、天井に必ずぶつかり後悔する、という意味です。

このような考えに対して、老子は有名な言葉を言います。「天網恢恢疎にして失わず」漏らさず、というのは日本にきて変わったものです。これは日本では違う意味にとられている。悪いことをした人は、法律から逃げているようでも、いずれは捕まり罰を受ける。

本来老子はこのような意味で言ったのではない。天の網は、恢恢、天地を広がっている。疎は目が粗い、ということです。天の網は目が粗く、しかし何者も取り逃がすことなく、不完全なように見えるが、最終的には全部理が通る。身の保身にそれをするには、足りないように、足りないようにしていくのが大事であると言っています。

懐石料理みたいなものです。最初に、見た目のよいものが少しだけ出てきて、これが非常においしい。そして次から出てくるのも、ちょっぴりだけだがたいへんおいしい。料理の半ば過ぎても、まだいろいろなものが出てくる。終わる頃には結構お腹いっぱいになっている。お腹いっぱいになるまで全部おいしい。この懐石料理というものは、老子の考えをうまく取り入れていると思う。

また、われわれには尺取虫のような柔軟さも必要だと思う。いつでも、失敗したり、それを後で直したりしながら進んでいる。このような不完全な姿勢でよい。なぜなら、尺取虫が体を曲げるのは、伸びるためです。柔軟で弾力がある、ということは易経にも書かれています。これを「曲がれば生き延びる」と老子は言っている。ねじれれば正しくなる。へこめば水が満ちてくる。朽ち果てれば生まれ変わる。少なければ得るし、多ければ思い惑う。ここらへんが大事です。

でしゃばらないからよい。誇示しないから現れてくる。誇らないから成功する。いばらないからよく続く。争いをしようとしないから、争いが起こらない。これが道をまっとうしようとする方法です。

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